織田信長が好んで舞ったという舞。TVや小説で見かける。「幸若舞」の「敦盛」の一節らしい。古典だの歴史だのに真っ暗な私にはよく分からないのだが、「人間五十年…」というフレーズだけが頭にこびりついている。幼い頃は、当時のヒトの平均寿命が50歳前後だったと言うことかと思っていたのだが、そうでもないらしい。検索してみると、微妙に異なる解釈がいくつも出てきて混乱するのだが、「人間界の50年は天界(の下層)では一日に過ぎない。あっと言う間だ。生まれてきた以上いつかは死ぬ。死を恐れず一生懸命やれ。」というあたりが最大公約数的な解釈っぽい。
そう言いつつ、信長は満約48歳で亡くなっている。寿命が50年という解釈はあながち外れでもないだろう。
一昼夜にしては50年は長い。何かをやろうとしている途中の人にとってはまだ短く感じられるのかもしれないが。永らえたところで、永遠ではない。有限である限りその差はわずかなものだろう。違いがあるとしたら、消え方だ。
死を恐れるなと言うが、死そのものは恐ろしくない気がする。50年も生きていれば十分だろう。よほどやり残したことが多くない限り、そういうものなのではないか。でも、その過程は恐ろしいかもしれない。眠るように、というがホントに眠るように逝くものなのだろうか? どんなに安らかに逝くとしても、その間際には断末魔と言われる恐ろしい時間があるのではないだろうか?
時空は時間に対して対称だそうだから、生まれる前と死んだ後は同じなのかもしれない。生まれる前への記憶を辿ると、始点にはなかなかたどり着かない。自分が生まれた瞬間はあたかも永遠の過去のように思える。時間の進み方(戻り方?)が遅くなっていくような感じだ。記憶の中の時間の遡行は対数的なのかもしれない。
同じ事を未来に適用すると、自らの死の瞬間は永遠の未来に相当する。寿命が永遠だと言うことではなく、自ら(観測者)の固有時で測って死は永遠の未来にあたると言う意味だ。そう考えると、自分の死を経験することはないのかとホッとしそうになるが、さにあらず。安らかではない死に方をするとその苦しみが永遠に続くと言うことになる。地獄というのはこのことを言っているのだろうか?
みんないつかはこの謎を解くのだろう。その解を他人に伝えることは出来ないのが残念だ。ブラックホールのようなものか。固有時の進み方は、先の考察と逆になるのだが。ま、いいかべつに。
何を考えているのだろうな。ま、現在も未来もいずれは過去になる。残るのは想い出だけ。さて、この先何を残そうかね。
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。
画像は信長を祀った建勲神社の石碑。